2018年8月15日 晴れ。
73年前の今日は、昭和天皇の=玉音放送=を畏まって聞いていた日だった。
1945年8月6日に広島県に新型爆弾(原子爆弾)投下、1945年8月9日に長崎県に新型爆弾(原子爆弾)投下・・・で遂に日本は、無条件降伏・敗戦となった。
戦争中は勿論のこと、迫りくる戦後の日本の食糧事情は、誠にひどかった。
今は亡き、母親は、おそらく食料の大切さを身に染みて感じていたと思う。
戦争中、山梨県の禾生村に疎開していたchochoensis と弟・母 は、隠れるようにおびえながら艦載機の襲来を避けていました。そのころ、私は、東京:日本橋から千葉県:市川市、そして戦況に合わせるように山梨県:禾生村に疎開していたのでした。
古いラジオから流れる・・・=空襲警報=の知らせ・・・「・・・東部軍管区情報・東部軍管区情報・・・南方海上より敵機xx機襲来・・・」すると、我が耳に=空襲警報のサイレン=が鳴り響いた、怖かった・・・急いで防空頭巾を頭にかぶり、庭に掘ったかび臭い=防空壕=に飛び込んだ・・・。当時の空襲警報の知らせは、=関東・甲信越を管轄する、東部軍管区司令部=から出ており、その情報に基づき、NHKのラジオ放送となって人民に知らされていたのです。そのような敵機襲来を潜り抜けた、小生たちも=食糧難=には困りました。戦時中は学業そっちのけで、野外に出掛け、食べられる野草などは山に行って採取しました。そのころに覚えたのが、野草類だった・・・野生のウド・ミツバ・セリ・スベリヒユ・青梅・桑の実・・・食べられそうな野草はなんでも食べた、疎開先の近くには、=桂川=という清流が流れていたので、魚のウグイ、甲殻類のエビ類も良く捕まえていました。下の写真は、甲殻類の写真です。
撮影日:2017-7-18 埼玉県:川の博物館 「スジエビ」と「テナガエビ」
終戦後に配給された、=トウモロコシの粉砕物=には悩まされた。
母親が薄くして煎餅のようにして焼いてくれたが、まずかった。
すいとん・・・といっても、薄味の水に小麦粉の粉をちぎったものが入っていただけだった、現在のように様々な=具=は入っていなかった・・・。
腹が減るのがたまらなく悔しかった、現在のような飽食の時代が来るとは思いもしなかった・・・。
時代は下がり、東京に戻っての学校給食には驚いた・・・カチカチのクジラ、脱脂粉乳のミルク、何が入っているのか判らない野菜の汁、なんでも初めてだった。
校舎の中はコンクリートの鉄骨がむき出しだった。