蝶・チョウ・ゆっくり歩き・・・「千蟲譜物語」
2024-03-19T08:49:51+09:00
chochoensis
蝶・蟲・野鳥・野草などの自然観察日記。 アクセス数: 696,205
Excite Blog
世相と歩む人生 キマダラルリツバメ観察の頃
http://choyukkuri.exblog.jp/29984817/
2024-03-19T06:56:00+09:00
2024-03-19T08:49:51+09:00
2024-03-19T06:56:19+09:00
chochoensis
結婚50年史
1958年ごろは、キマダラルリツバメの産地は、神奈川県の一部と東京都郊外の他、生息地を知らなかった、ところが、岩手県のチョウセンアカシジミを見に行った帰り、岩泉町で、当時は珍しかった、キマダラルリツバメ東北亜種を見ることになります。
その当時は、東北亜種が発見されてしばらくでしたので、大きな反響がありました、その時のキマダラルリツバメ東北亜種は、翅表の群生色が深みのある個体でした。
今まで知られて居た関東地方の キマダラルリツバメ は、翅表の群生色の発達が弱く、東北亜種とはかなりの確率で隔りがありました。
そう言う状況の中での 岩手県岩泉町のキマダラルリツバメは、おおいに驚いたのです。
その後、1969年、福島県で発見されので、福島県に行こうと考えていたのです。
世間では、神武景気、マナスル登頂、南極上陸、の頃、から数年後だった岩手県産のキマダラルリツバメ東北亜種に刺激されたのです。
その時の文章が下記の通りです。
2007年7月3日 曇り。 「キマダラルリツバメ」の翅裏斑紋が少しおかしい・・・この「キマダラルリツバメ」も「チョウセンアカシジミ」を観察しに行った、岩手県岩泉町で観察したのが最初でした・・・当時は、この「キマダラルリツバメ東北亜種」といわれるものがあまり広く知られていなかった頃でしたので、我々の観察が昆虫誌に掲載したぐらいの頃だったのです。その、1958年から既に約半世紀経ってしまったのですが、関西地方以西では、かなり有名な生息地もあることから、東北の「キマダラルリツバメ」を見にいきたいという気持ちが加齢とともに強くなっていました・・・。東北地方にこだわったのは、最初に見た「キマダラルリツバメ」の印象が強く残っていたからかもしれません・・・。福島県西部、新潟県に近いところに博士山という標高1482メートルの山があります。この山で、1969年7月24日、当時、茨城大学の学生が「キマダラルリツバメ」を採集したのですが、この時点までは、東北地方の「キマダラルリツバメ」は、岩手県陸中地方しか生息分布が知られていただけで、福島県での発見は大きな反響を呼ぶことになったのです。現在、鱗翅学会の会員でもある「角田 伊一(つのだいいち)」さんが、これに刺激を受けて調査を開始し、それから8年後、ついに=博士山=産の「キマダラルリツバメ」を発見したのです。すでに、時節は、1977年7月4日になっていました。こんな経緯がある福島産の「キマダラルリツバメ」にどうしても会いたくなって今回は、「鳥蝶ビデスコ」のmtana さん、そして秋ヶ瀬野鳥クラブのFさん夫妻と出かけたのです。現地で、Fさんが探してくれた「キマダラルリツバメ」を色んな角度から撮影していると、何か違和感を感じていたのですが、撮影中はそこまでの余裕がなくフィルムを現像して気がついた事があります・・・右翅が全体にやや暗く感じていたのです・・・そこで同行の方々が別の個体の開翅写真などを狙ってる間も、わたしは、ブログの精神のように=ゆっくり=1頭の「キマダラルリツバメ」に拘って撮影していました・・・天気もあまり思わしくない状態がそうさせたのかもしれません。まずは、全体を見てください・・・。
2007-7-1 「キマダラルリツバメ」 右翅 福島県にて
2007-7-1 「キマダラルリツバメ」 左翅 福島県にて
2007-7-1
全体が暗いので詳細に見たら=ピンクの矢印=に黒い斑紋
2007-7-1 デジカメで撮影した同一個体の右翅
この「キマダラルリツバメ」、翅裏の斑紋変異の多い事でも知られていますが、1頭の左右で斑紋が違うと言うのも面白い・・と写真を見ながらニヤリとしてしまいます。
最後に「キマダラルリツバメ」の学名について触れておきましょう・・・キマダラルリツバメ属:Spindasis の語源は詳しくわかっていませんが、まったくの個人意見ではラテン語の=トゲ(棘) Spina=あたりがなにか気になります、尾状突起の飛び出しが気になるのです。また、種名:takanonis と言うのは、蝶の研究家:「高野 鷹蔵」氏にちなんで付けられたものです・・・高野鷹蔵さんのことは、高山蝶タカネヒカゲが掲載できたらまた触れるようにしましょう。
]]>
体調不良によりしばらく休止
http://choyukkuri.exblog.jp/29966498/
2024-03-15T07:51:00+09:00
2024-03-15T11:47:30+09:00
2024-03-15T07:51:25+09:00
chochoensis
未分類
しばらく、中止します、ごめんなさい。
chochoensis. 2024-3-15
]]>
世相と歩む人生 チョウセンアカシジミの想い出
http://choyukkuri.exblog.jp/29962264/
2024-03-14T08:58:00+09:00
2024-03-16T09:53:13+09:00
2024-03-14T08:58:44+09:00
chochoensis
結婚50年史
最初に、チョウセンアカシジミの観察に岩手県に行ったのは、昭和33年、1958年の頃だった。世間ではミッチーブームが、沸き起こり、日清製粉の社長令嬢の、正田美智子様が皇室に入られると言う事で、日本中が沸き返って居た頃です。
そんな時に、私は、22才でした。
昭和27年、1952年に発見された、貴重なチョウーーーチョウセンアカシジミーーーを求めて、東北本線に乗り込み、岩手県に向かって居たのです。
若かったからこんな無茶苦茶も出来たのです。その後、新しい産地ーーー山形県小国町にも行ったのですが、感激はひとしおでした。
以下の文章は当時の掲載記事です。
2007年7月2日 くもり。 50年前の記憶がまざまざと蘇った希少生物「チョウセンアカシジミ」東京の東北の玄関口だった=上野駅=、東北本線の始発駅だった上野駅に立ったのは、青年時代のころ、1958年7月11日の夜だった・・・。ここから夜行列車に乗って、岩手県の盛岡駅目指して友人の畠山光平クンと岩手県下閉伊郡田野畑村沼袋という小さな村に行こうとしていたのです・・・。盛岡駅に着いた、当時の写真を見てみると、未だ見ぬ「チョウセンアカシジミ」に興奮していたのか、それとも、慣れぬ夜行列車に疲れたのかゲンナリした顔つきをしています。盛岡から宮古行きに乗り換えさらに茂市で乗り換え、岩泉町を経て田野畑村に入ったのです。その当時の「チョウセンアカシジミ」は、とても珍しく、1953年9月に新亜種として記載されたばかりでした。「チョウセンアカシジミ」の新発見記載から4年後の1957年の事です、我々もその珍しい「チョウセンアカシジミ」を見に行こうと計画を立てたのでした・・・。その当時、1952年(昭和27年)に宮古高等学校の先生をしていた「山本 弘」=後に一関市修紅短期大学の教授を務めた=先生が、夏休みの宿題の昆虫標本の中に「チョウセンアカシジミ」を見つけたのです・・・この経緯は、宮古高等学校の生徒だった「菊地 純一」さんが田野畑村で採集したことがわかったのだそうです。その年の秋(1952年10月)に盛岡市で行われた日本昆虫学会で紹介され、話題になり、故 江崎 悌三 博士が「朝鮮半島の一部で知られる型で分類学上、貴重な発見・・・」と言わしめた新発見でした。このような話題性のある「チョウセンアカシジミ」でしたから、夜行列車に乗って出かけたのもご理解いただけるのではないでしょうか・・・。翌年、1953年に上記の「山本 弘」先生と、当時、岩手大学の助手だった「岡野磨瑳郎」さんとの共同調査で田野畑村での棲息を確認できたといいます。岩手県の調査が更に進み、山形県にも居ることが判りました・・・山形県新庄市真室川町神ヶ沢・・・ここで黒色の発達した「チョウセンアカシジミ」が発見されたのです。元、真室川小学校の校長もなさった「大類 貞夫」さんがその人です・・・。今回は、山形県に行ってみました・・・地域住民の「デワノトネリコ」保護や、増殖、下草刈りなどに守られて、貴重な「チョウセンアカシジミ」は、守られていました。
2007-6-30 「チョウセンアカシジミ」山形県 小国町
2007-6-30 ssp. ohruii shirozu 1962
*現在は、岩手・山形をあわせて ssp.yamamotoi Okano 1953とすることが多い
2007-6-30 「チョウセンアカシジミ」交尾 山形県2007-6-30 同上 産卵 山形県にて2007-6-30 産卵直後の=卵=未だ薄紅色 山形県2007-6-30
食樹「デワノトネリコ」根際のチョウセンアカシジミ蛹 山形県
今回の観察旅行については、群馬県:佐藤伸一さん、東京都:山本昭良さん、埼玉県:田中幹男さん、埼玉県:福永貴史さん他、大勢の方からご指導、ご協力を戴きました。
]]>
世相と歩む人生 誤解されたブッポウソウの秘密 鳴き声
http://choyukkuri.exblog.jp/29957497/
2024-03-13T08:49:00+09:00
2024-03-14T17:19:18+09:00
2024-03-13T08:49:05+09:00
chochoensis
結婚50年史
昨日、コノハズクの鳴き声の劇的な誤解解明事件は、分かったのですが、肝心のブッポウソウの鳴き声の解明には結びつきませんでした。
そこで、自宅の書架にある書籍の中から「野鳥の四季」という本を見つけました、それによると、夜間に鳴くブッキョコウーーーと言う声で鳴いている鳥を発見したが、それ以上は、わからなかった。しかし、その森を調べていると、昼間、青い鳥ブッポウソウを見つけた、その人は、昨晩、ブッキョコウーーーと美声で鳴いて居た鳥は、この様なブルーの鳥に違いないと思い込み、この鳥をブッポウソウと名付けてしまったーーーという。
すなわち、勘違いから、ブッポウソウ(仏法僧)の鳴き声を、そのまま鳥の名前にしてしまったと言うわけです。
しかし、実際の鳴き声はもっと汚い「ゲゲゲツーーー」という声なのですから、慌てん坊による誤解だったと言うわけです。
世間では、小泉純一首相が拉致被害者を戻すべく北朝鮮に行った頃です。
以下は、その当時の掲載記事です、原文のままです。
2005年11月10日 晴れ。今日は、南国を思わせるブルーの綺麗な「夏鳥」を紹介しましょう。この素敵な野鳥「ブッポウソウ」に初めて出会ったのは、バードウオッチングを始めて2年目の夏でした、2001年6月9日の朝早く家を出てこの年、これで3度目の探鳥でした。やっと、観察できた時には思わず感激して、心の中で「ヤッター」と叫んでいました。しかし、写真に撮ったのは1年後のシーズンになってしまいました・・・。「ブッポウソウ」までの距離が遠くて、自分が持っている望遠レンズでは届かなかったので、野鳥観察の「フィールドスコープ」に、今でも使っている「小型デジカメ」をスコープに当てて撮影しました。その画像が、下の写真です、想い出しても懐かしいです・・・。
2002-6-7 ブルーの鮮やかな「ブッポウソウ」 神奈川県
「ブッポウソウ」(仏法僧)とは、名前が付いていますが、鳴き声は世間で言うブッポウソウーとは鳴きません、これも、野鳥仲間の先輩に教えられたのですが、鳴き声は「ゲゲゲゲゲ、ゲーゲゲゲ」又は、「ゲェ、ゲゲゲ」「ゲッ、ゲッ、ゲゲゲーゲゲゲッ」などと凡そ姿からは想像できない鳴き声を出すそうです、残念ながら私は鳴き声をきいたことがありません・・・。では、どうして「ブッポウソウ」という名前が付いてしまったのでしょうか・・・この誤解を解くために蔵書の中から「野鳥の四季」というのをみつけました・・・曰く、「・・・ブッポウソウ、鳴き声で誤解されているが、ブッキョッコーと鳴くコノハズクが、夜、美声で鳴いている森に、昼間、偶然にこのブッポソウが見られたために、夜の鳴き声の「主」にされてしまったといういわくが昭和初年に解明された・・・」とあり、どうやらこの辺が表題の「ブッポウソウ」はブッポウソウに在らずという説明になりそうである・・・。すると、昭和初年代までは「勘違い」されっぱなしだったことになって、非常に面白い。
ちなみに、「ブッキョッコー」(人に聞こえる声、聞きなしではブッポウソウーと聞こえる)と鳴くコノハズクは、なかなか出会える野鳥ではないのですが、野鳥仲間の先輩に連れて行ってもらった石川県で2001年10月7日に「ご尊顔」を拝することができました。20年も野鳥観察していて初めてだったというその先輩の言葉が「重かった」ことを覚えています・・・。
]]>
世相と歩む人生 「ブッポウソウ」と鳴く鳥は、「コノハズク」だった!
http://choyukkuri.exblog.jp/29954781/
2024-03-12T08:25:00+09:00
2024-03-14T17:22:26+09:00
2024-03-12T08:25:47+09:00
chochoensis
結婚50年史
日本には、ブッポウソウという鳥と、コノハズクと言う鳥が居ます。
長い間、ーーーブッポウソウーーーと鳴く鳥は、ブッポウソウ(仏法僧)と、信じられて来ました、ところが、この鳴き声に疑問を持った人が出て来たのです。
この顛末が面白いので、過去記事の全文を紹介する事にしました。
アメリカではーーー同時テロがあった頃です。
過去記事の全文。
2006年1月14日 くもり。
今日は、「フクロウ・ミミズク」の最終回になります・・・。今日紹介する「コノハズク」を観察したのは、いつもお世話になっている、野鳥仲間の先輩たちと北陸路を走って「石川県」にいったときでした。じっくり観察して満足したのですが、写真は「ピンボケ」になってしまい、その時に一緒に同行させてもらった、東京都板橋に在住の「本橋 弘邦」さんに素晴らしい生態写真をもらった・・・。今日は、その「写真」をご本人の事前了解のもとに、掲載させていただくことにした。
私も、隣で観察していたのですが、撮影技術の差はいかんともし難く、雰囲気を十分に堪能していただきたいと思います。
以下は、1935年の当時の記事ですが大変面白いので全文を紹介します。
写真は、著作権法で保護されて居ますので、記事、写真とも無断転載しないでください。
2001-10-7 姿を観察するのは珍しい「コノハズク」
石川県にて
撮影:本橋 弘邦 さん
◎著作権は、撮影者にありますので無断転載しないでください さて、この「コノハズク」の鳴き声、ブッポウソウ・・・と鳴く秘密解明の物語は、大変面白いので、少し詳しく紹介したいと思います。
このブログの「ブッポウソウ」の紹介の時にさわりを述べましたが、長い間、ブルーの野鳥「ブッポウソウ」が鳴き声もブッポウソウ!と鳴くと信じられてきました。
日本で「ラジオ放送」が開始されたのが、大正14年(1925)3月22日だったといいます。当時は、今のNHKは「東京放送局」といっていたようですが、その放送開始から10年ほど経った昭和9年(1934)、「ブッポウソウ」の鳴き声を全国に放送しようとしたのですが、当時は「生放送」だったために、鳴き声を放送できずに失敗していました。次の年、昭和10年(1935)6月に「ブッポウソウ・・・・」と鳴く声を求めて再び、愛知県の「鳳来寺山」に出かけて「生放送」で全国に放送しようとしていました・・・。この鳳来寺山は、ブッポウソウの鳴き声が良く聞かれる有名な場所だったようです・・・。そして、二晩とも、「ブッ、ポウ、ソウ、・・・ブッ、ポウ、ソウ・・・」ときれいな声を全国に放送出来たそうです・・・この番組は有名になって「ブッポウソウ」の鳴き声も有名になったそうです。
ところが、当時、東京下町にあった「浅草」の傘屋さんの家で飼っていた小さな可愛らしいフクロウの仲間「コノハズク」が、この「ラジオ放送の鳴き声」に呼応して「ブッ、ポウ、ソウ、・・・ブッ、ポウ、ソウ、・・・」と鳴いたと言うことが判り、これが評判となって知れ渡り、当時、東京帝国大学理学博士だった「黒田 長礼(くろだながみち)博士」の知るところとなり、傘屋さんで飼っていた「コノハズク」を借りてきて、枕元に置いて鳴き声を確かめたそうです・・・すると、明け方近くなって、「ブッ、ポウ、ソウ、・・・ブッ、ポウ、ソウ、・・・」と鳴いたんだそうです。
劇的な発見だったようです。さらに同じ頃、山梨県の鳥の研究家「中村 幸雄」と言う人が、常日頃から「ブッポウソウ」と鳴く鳥の正体に疑問を持っており、2年間捜し求めて「ブッポウソウ」と鳴いている鳥を撃ち落し(昭和10年6月12日)、「コノハズク」だったと判明しました。この二つの「事例」が昭和10年6月15日の日本鳥学会で報告、正式に「ブッポウソウ」と鳴く鳥は、「コノハズク」であると認められたといいます。長い間の誤解が解かれた「コノハズク」にとって記念すべき日になったのでしょう・・・。面白い歴史があるものですね。=山階鳥類研究所研究員の報告を参考にしました。
]]>
世相と歩む人生 あの日は怖かった 東日本大地震 2011
http://choyukkuri.exblog.jp/29951969/
2024-03-11T07:16:00+09:00
2024-03-11T08:28:17+09:00
2024-03-11T07:16:48+09:00
chochoensis
結婚50年史
今から13年前だった、日本の東北地方 太平洋沖で超巨大な地震が発生して、私が住んでいる埼玉県川越市でも立って居られないほどの揺れが生じた。
その少し前、私は、キマダラモドキいう蝶の飼育をするためのスズメノカタビラと言う草の調査をしており、終わったので、自宅に帰るべく近くの商店街にやって来た時に、ものすごい揺れを感じ、持病の心臓系疾患が悪化したと、思って思わずしゃがみ込みました。ーーーだが、巨大な地震だったのです。
2011年3月11日、午後14時46分でした。
その後の調べで、死者 19,747名、行方不明者 2,556人、負傷者 6,242名、建物全壊 122,005棟、建物半壊 283,156棟、という、超巨大な地震だったのです。
その時の記事が下の文章です。
2011年3月12日 はれ。昨日、「スズメノカタビラ」の撮影を終わって、自宅周辺の商店街まで来たときです・・・急に足元がふらついたので、心臓機能か脳の病気の=めまい=かと思って立ち止まったら、急に大きな横揺れが来た・・・商店街の店舗から人々が転げるように飛び出してきた・・・上を見上げると、電線が大きく揺らいでいる・・・地震だ!思わず、その場に座り込んでしまった・・・怖い!帰宅しようとしたが、電車は止まり踏切が開かない・・・仕方ないので遠回りして自宅までたどり着いたら、家内が玄関先に出ていた・・・どうやら携帯電話が繋がらなかったので心配したようだ・・・。その後も余震が続き怖い夜を過ごした・・・。今朝になって、新聞を見たら・・・1923年以降で最大級の地震だった・・・とある、東北地方の家内の実家には今朝やっと電話が繋がった・・・。どうやら無事だったらしい、よかった・・・。子供の頃から集めた=虫=の標本箱は、虫の知らせか、数日前に防虫剤の補充をしたときに高積みしてあった標本箱を低い位置に保管しなおしたので、被害はなかった、積み上げてあった書籍類は一部崩れてしまったが、本箱に入れてあった書籍類は無事だった・・・。今でも時々小さな揺れがあるようです、怖いな・・・。 2011-3-12 今朝の朝日新聞の朝刊 マグニチュード8.8 アメリカ・タイなどの=虫=の標本箱は、無事だった・・・ 書籍類の一部 重量のある図鑑類は無事だった・・・
]]>
世相と歩む人生 天然記念物 シマフクロウの想い出
http://choyukkuri.exblog.jp/29950367/
2024-03-10T07:14:00+09:00
2024-03-10T09:56:51+09:00
2024-03-10T07:14:13+09:00
chochoensis
結婚50年史
昔、日本では天然記念物 絶滅危惧種1A類に指定されている、北海道の特産種を観察に行った事があります。冬の寒い時期で、大雪山系の山奥にある、芽登温泉という場所に行ったのです。
それまで、シマフクロウの生態もよくわからずに、先輩にくっついていったのです。
シマフクロウは、フクロウ目フクロウ科ワシミミズク属の野鳥で日本での最大種であり、北海道でも当時、100羽ぐらいーーーしか居ないという超貴重な野鳥でした。
観察出来るか不安だったのですが、先輩のご指導で現地に行ったのです。
宿泊地に行ったものの、当然、野鳥の姿はありませんでした。
先輩諸氏は、出て来るまで、宴会だと言って引き上げてしまったのですが、私は現場に残りました。程の良い斥候、見張り役ですそれでも後輩ですから満足して居ました。
寒さ厳しい中、夜半が過ぎて行きますその時に、聞き慣れない鳴き声を聞いたのです。
慌てて、先輩たちに知らせに走りましたーーー。
それが下の記事です。当時の掲載時のままです。
最後の写真は追加しました。
2006年1月11日 はれ。
フクロウ目フクロウ科の中でも最大種「シマフクロウ」に会いたい為に、北海道に渡ったのは、今から3年ほど前のことでした・・・。野鳥仲間の先輩たちに連れられて、茨城県の大洗港から車ごと乗船して苫小牧港に到着して、大雪山系の山奥に入りました・・・。「シマフクロウ」は、ノウサギ、ネズミ、魚、両棲類などを捕まえているそうですが、近年の生息数減少は激しく、本来の生活環境である原生林の減少などで、大きな樹洞もなくなって、日本での生息数は僅か「100」羽前後だといわれています・・・悲しいことです、「トキ」の二の舞にならなければ良いのですが・・・。レッドデーターブックでは、「絶滅危惧 I A」に指定されていて、とても私には縁のない野鳥と思っていました・・・。現地で、「ボウッーボウッー・・・・・・」と言う鳴き声を聞いたのはそんなことを考えているときでした・・・あわてて、野鳥仲間の先輩たちのところまで戻ってその鳴き声を先輩たちに告げたのです・・・すると、「それだ!・・・」後は、どこをどう走ったのか覚えていませんでした。
後で、図鑑で確認すると、雄と雌が鳴き交わすときには、「ボーボーッ」と雄が鳴くと雌が「ウー」と鳴く、とあったので、私には二つの声が重なって聞こえてしまったのでした・・・。暗かったのと、遠かったので、上手く撮れなかったのですが、2羽並んでいる姿はフクロウでありながらミミズクのような「羽角」がしっかり観察できました。
2002-10-13 「シマフクロウ」の雄と雌 北海道アイヌ民族の「森の守り神=カムイコタン」の永遠の繁栄と幸せを祈って遠くから見守ってその場をあとにしました・・・。江戸時代の動植物図譜が優れていることは、「タマムシ」の項目で既に取り上げましたが、日本画の世界に「花鳥図」というジャンルがあり、美しい「鳥」の図説が多く残されているので、機会を捉えて紹介してみたいと思います・・・。今日は、16,000石の佐野藩主だった「堀田正敦(1755-1832)」があらわした「堀田禽譜」に出ている「シマフクロウ」です。下の図を見てください、美しくて描写が正確であることに驚かされます、「羽角」が長くて幅広いことも正確に写図されていますね。びっくりです。
「堀田禽譜」に描かれた「シマフクロウ」 江戸の動植物図より
*chochoensisの=野鳥の先生=から購入した「シマフクロウ」
カメラマン:高橋 喜代治 さん 撮影の「シマフクロウ」
*この写真の著作権は、高橋 喜代治さんにあります。複製は禁止です。
サハリンでは、1971年以降、未観察ですから、絶滅したと思われます。
現在では、中国の黒竜江省、吉林省、などに居て羽角がある。
夜行性で、10キロx2キロの範囲でつがいを形成する。淡水魚、両生類、甲殻類、小型の動物類を捕らえるという。
最近では、水質悪化、環境破壊などで生息数が減少しているという。
下の写真は、ウイキペディアによる。
]]>
世相と歩む人生 第50回記念 さっぽろ雪まつり 1999
http://choyukkuri.exblog.jp/29946591/
2024-03-09T08:45:00+09:00
2024-03-14T17:14:11+09:00
2024-03-09T08:45:05+09:00
chochoensis
結婚50年史
たった1度だけ、さっぽろ雪まつりに行った事があります。
家内と二人で20世紀最後の1999年2月5日から11日まで開催されたーーーさっぽろ雪まつり50回記念大会に出掛けたのです。
飛行機を降りて直ぐに札幌市大通り公園に行ったのです。
その頃、ヨーロッパでは、ヨーロッパ全域で通用するユーロが誕生した頃です。
さっぽろ雪まつりが始まったのは記録によると、1950年の冬、高校生、3学校、中学校、2学校の美術教師の監督のもと、札幌市大通り公園の1角に6基の雪像を作ったのが始まりだったと言う。
家内の幸子と二人で会場に行ったのです。この大会が後のさっぽろ雪まつりを有名にしたと伝えられます。
雪像は幾つかありましたが、「北の動物たち」「夢 ニュー スプリット」「鰊御殿と北前船」「アンバリッド ドーム教会」「ヴィクトリア メモリアル ホール」など多彩でした。
会場のはずれに、札幌農学校ーーー後の北海道大学ーーーの講堂、札幌時計台も見学しました。寒さに震えながら、名物のグルメ、サッポロラーメンを食べました。
因みに、2024年は、74回大会だそうです。
]]>
世相と歩む人生 新しい目標に向かって エゾフクロウ 2002
http://choyukkuri.exblog.jp/29944060/
2024-03-08T10:11:00+09:00
2024-03-08T10:23:16+09:00
2024-03-08T10:11:56+09:00
chochoensis
結婚50年史
昨晩も、雪だった様である。今朝、窓を開けてみると、地面が白くなって居た。
気温が下がって居たので不思議に思って居たら、窓を開けて理由が判明した。
ここ数日は、家族の国内旅行の写真の整理とか、思い出に残っている自然観察や、災害記録、自然風俗の整理に忙しく動き回って居た。
未だ未記載の国内旅行や、災害記録、今までに撮影した自然観察、先輩からいただいた貴重な写真などたくさんある。
ここに来て、第一回の目標だったーーー2020年に迎えた、結婚50周年の金婚式までの記録は終わった。
しかし、2025年1月10日には、結婚55年のーーーエメラルド婚ーーーを迎えるために、新しく目標設定を追加する事にした。できる事なら、2026年のーーー米寿祝いーーーも迎えたい、そういう新しい目標を作る事で、老人性のボケ防止をクリヤーして行きたい。
老人のわがままかもしれないが、続けさせていただきたい。
今日はその中から、雪の降りしきる北海道で観察したーーーエゾフクロウーーーを紹介したい。当時は北海道の渡島半島で撮影した、雪の積もった山奥で撮影した野鳥です。
2006年1月9日 はれ。
今日、紹介するのは、フクロウの1亜種で北海道にいる白っぽいフクロウ、「エゾフクロウ」を雪深い山奥に観察に行った思い出です。今から4年前の冬でした・・・膝よりも深く降り積もった山の中にいました、なかなか「エゾフクロウ」は、出現してくれません、さらに細かい雪が降り出して視界も遮られて苦戦していました。この時にも、野鳥仲間の先輩たちと一緒に歩いていました。
どのくらい時間が経ったでしょうか・・・先輩の足が急に止まりました・・・皆、静かに立ち止まったのです・・・すると、小声で、「居た・・・」。
皆で指差す方を眺めると、大きな樹の枝分かれしたところに樹洞があって、その穴の縁に白っぽい野鳥が止まっていました。初めて見る「エゾフクロウ」でした。
この時には、写真を撮らずに、降雪の止んだ翌日に再挑戦して、撮影したのが、下の写真です。
2002-1-28 「エゾフクロウ」 北海道フクロウの仲間は、昔から、知恵や幸福の守り神として、人々のくらしの中に親しみを込めて認められてきていますが、森林生態系全体を考える上でも重要だと言われています。世界中には、亜種を一つの種として数えても133種類もいるといわれています。そのうち日本には「フクロウ」「シマフクロウ」「アオバズク」「コミミズク」など11種が記録されているようです。フクロウの仲間の「羽角(羽毛)」については、すでにのべましたので、今日は、フクロウの仲間が狩りをするときに「羽音」を立てずに獲物に飛びかかれる仕組みを調べて見ましょう・・・。「フクロウ」の羽に秘密があるようです・・・山階鳥類研究所の文献にありました・・・簡単に要約すると、「フクロウ」の羽には、「前縁に櫛のようなギザギザ」があり、更に、羽の「後縁には細かく分かれて」いるというのです。これは、いづれも「初列風切羽」のことなのですが、前縁のギザギザが「羽ばたきの音を吸収」して、さらに、後縁の細かい枝分かれが「羽音を吸収」するのだそうです。耳の高低差で獲物をキャッチして、まっすぐに「羽音」を消して鋭い爪で捕まえる・・・なんと上手くできているのでしょう・・・。
この、原理を応用したのが「新幹線」のパンダグラフにあるというのです。調べてみました・・・今までの電車の「パンダグラフ」と言えば「ひし形パンダグラフ」でしょう、しかし、500系の新技術を取り入れたパンダグラフ・・・「シングルアーム・パンダグラフ」・・・の下の画像を見てください。パンダグラフを支える柱の両脇に亀甲型の模様が見えます。これが「高速走行時の消音装置」になっていて、その、発想の原理が「フクロウの消音飛翔」だと言うから驚きです。ビックリしました・・・。
新幹線のシングルアーム・パンダグラフの消音装置の亀甲模様
]]>
世相と歩む人生 子供の教育
http://choyukkuri.exblog.jp/29939721/
2024-03-07T09:16:00+09:00
2024-03-07T13:44:51+09:00
2024-03-07T09:16:47+09:00
chochoensis
結婚50年史
人格形成の一番大事な時期、小学校から中学校の頃、忙しいと言う理由で、ほとんど家庭を振り返る余裕が無かった。これは、今でも反省の気持ちが頭から離れない。
子供の一番大切にしないといけない時期に、父親としての子供の人格形成を怠ってしまったのです。自分があれだけ苦労したのに、自分の子供にしてやる事ができなかった。
輪廻転生、自分に返って来たのです。反省の日々を過ごして居ます。
それでもやっぱり、人並みに遊びに連れて行ったのです、埼玉県の近く、または、家内の実家のある福島県の近くには行きました。
子供が小さい時には、埼玉県内ーーー埼玉県上尾市の団地周辺、部屋の中、外の芝生、ジャングルジム、蓮田市の元荒川、団地を出て上福岡の大井町、坂戸市、この時代には少しずつ遠出をした。花火、水遊び、川越市の冒険の森、川越市の喜多院、埼玉県の越生梅林、同 黒山三滝、川越市の芋掘り、飯能市の名栗溪谷、ときがわ渓谷、宮沢湖、天覧山、国営武蔵丘陵森林公園ーーーー自分が経験できなかった事を子供達に経験させてあげたかったのです。
そして、少し大きくなると、福島県白河市の南湖、野口英世記念館、猪苗代湖、阿武隈洞、常磐ハワイアンセンター、会津若松城、栃木県茶臼岳、日光、鬼怒川、那須、りんどう湖、ーーーなど遊びに行きました。
関西に転勤してからは、事業の立て直しが忙しく、子供の世話は殆ど家内任せの状態で反省して居ます。子供の教育が出来なかった時期で、多感期の子供の世話ができなかった事が悔やまれます。
ですから、子供の教育が出来なかった原因は全て私に有ります。
]]>
世相と歩む人生 皆既月食 イン川越市 2014
http://choyukkuri.exblog.jp/29935125/
2024-03-06T07:19:00+09:00
2024-03-14T17:26:56+09:00
2024-03-06T07:19:09+09:00
chochoensis
結婚50年史
昨晩はグッスリ眠ってしまったので分からなかったが、夜に雪になった様で外の景色が真っ白になって居ました。
今日は、川越市で観測した皆既月食である。3年ぶりだそうです。
以下は、その当時の記事です。
世間では御嶽山が爆発をした頃です
2014年10月8日 19:43 埼玉県:川越市テレビで放送していた「皆既月食」・・・3年ぶりだという=天体ショ-=を観察した・・・。初めは・・・東の空に輝いていた=月=が下弦から次第に暗くなって、19:43分ごろには、全体がボンヤリとして、赤褐色のお月様になってしまった・・・。家内と、二階の6畳の洋室から眺めていたが、次第に寒くなってガラス戸を閉めてしまったが、とても、神秘的な自然の=天体ショ-=に見とれてしまった。下の写真は、2014年10月8日 19:43分の様子である。(拡大写真)
]]>
世相と歩む人生 タイ王国 旅人の木
http://choyukkuri.exblog.jp/29931202/
2024-03-05T08:23:00+09:00
2024-03-05T14:35:18+09:00
2024-03-05T08:23:42+09:00
chochoensis
結婚50年史
タイ王国に居た時に印象が深かったのが、ーーー旅人の木ーーーという植物であった。
丁度、日本舞踊で使う事が多いーーー舞扇を広げた様な形をした植物である。
旅人が休む時に座り込む樹の下を思い出す様な植物である。
タイ王国では、あちこちで見かけたが、遠くからでもすぐに識別できる様な樹の形が好きだった。
下の記事はそうした記事を掲載した時の文章である。
2012年2月23日 くもり。 =ゴクラクチョウ科・タビビトノキ属= 「タビビトノキ(旅人の木)」南国に生える=椰子(やし)=とか、=バナナ=に似ていますが、「旅人の木(タビビトノキ)」は別名:「旅人椰子」ともいいます。「タビビトノキ」は、学名を・・・Ravenala madagascariensis と言って種小名からも判るように、アフリカの東部にある=マダガスカル島=原産だと言います。葉柄が=舟をこぐ櫂(かい)=のようになっており、葉茎が横一列に並ぶ様子は奇観です。この「旅人の木」は、茎に雨水を溜めるので、昔から=旅=をする人は重宝し、=非常用飲料水=として利用されたと言います。昔は、=バショウ科=だったらしいが、このブログでは近年用いられている=タビビトノキ属=として掲載します。樹高も高く、見上げる大きさで、約7メートルにもなるといいます。下の画像は、バンコックで1997年に撮影したものですが、北部のアユタヤ県の寺院でも良く見かけました。
]]>
世相と歩む人生 タイ王国 オナシアゲハの想い出
http://choyukkuri.exblog.jp/29928771/
2024-03-04T08:20:00+09:00
2024-03-04T08:25:41+09:00
2024-03-04T08:20:30+09:00
chochoensis
結婚50年史
タイ王国では南部から北部の国境近くでも数多くのオナシアゲハが観察できました。
幼生期の幼虫の食べ物が柑橘類であった事が数多く見られた原因だったと思います。
日本のアゲハチョウ科と同じ様にたくさん観察できました。
日本で南の方に行った事がなかったので嬉しかったのです。
以下の文章は掲載時のままです。尚、写真は、蝶の生態写真集の杉坂美典さんに著作権が有りますので無断転載しないでください。
2012年2月15日 はれ。 日本にいた時に、この「オナシアゲハ」がインドシナ半島に棲息するということは知っていました・・・。南部・中部・西部・北部・・・どこに行ってもかなりの数を観察することが出来ました。観察時期は、2月頃から10月頃まで、いつ見ても綺麗な個体が観察できました・・・。バンコック南部の「ムアンボラン歴史公園」でも、さらに南のパタヤ海岸地帯でも、あるいは、ミャンマー国境付近でも、民族衣装が似合う=少数民族=が居た北部のゴールデン・トライアングルでも、観察頻度は高かったです。調べてみたら、温かい地方が好きな・・・柑橘類(かんきつ類)をオナシアゲハの幼虫が摂食すると言う事でした。道理で、沢山見かけたのだな・・・。
バンコック南の=パタヤ=に行った時にも=トンソン(松の仲間)=のある海岸線を陸地に少し入ると「オナシアゲハ」は、いました。雨季に入るころ・・・ココナツ椰子や、パイナップル畑の近くに行くと観察できました。
海岸線では、中学生か高校生の男女が着衣を着て遊んでいましたが、着衣のまま・・・海に入るのには驚きました・・・どうやら、=タイ=では、人前で=肌=を出すのは=敬虔な仏教徒=として許せないという認識があるようでした、とても、日本人には考えられない事でした・・・。
そういえば、バンコックで、=王宮寺院=に入る時には・・・半ズボン・腕まくり・肌を見せる格好・サンダル・などは入場禁止でした・・・下は、バス会社の注意事項の入ったパンフレット・・・です。
]]>
世相と歩む人生 キシタアゲハの想い出 タイ王国
http://choyukkuri.exblog.jp/29926498/
2024-03-03T07:14:00+09:00
2024-03-03T07:16:45+09:00
2024-03-03T07:14:31+09:00
chochoensis
結婚50年史
タイ王国に転勤辞令が出て、バンコックにいた頃の想い出です。
その頃は、タイ王国の歴史に凝って居ました。その頃のタイ王国では、交通渋滞が頻繁で、高速道路の建設が盛んでした。
当時はバンコックのマンションに住んでいたのですが、勤務地のある場所は、アユタヤ県に有り、自動車で3時間掛かった時もあるぐらい混雑して居ました。
当時から、北部の地域には古い都市も多く、一種の憧れだったのです。
そう言う事情もあったので、北部のスコータイ遺跡公園には行ってみたかったのです。
以下の文章は、当時のままです。
2020年9月17日
世界的な=パンデミック=となった、新型コロナウイルスであるが、日本でもその感染勢いはすこしも衰えない。
今年の3月から4月の桜の季節から、早くも6か月になってしまったが、今日から=蝶・チョウ・ゆっくり歩き=のブログを更新したい。
今から、20数年前には、東南アジアの=タイ王国=に駐在していました。
中学生のころから、チョウの魅力にとり付かれていた chochoensis は、=タイ王国=に転勤が決まったときには、勤務の苦しさよりも、幾分、憧れていた南国のまだ見たことがない景色を想像していました。
それまでは、新大陸の北アメリカの中西部に転勤していたこともあり、南の国に憧れていたのでしょう・・・。
下の画像「キシタアゲハ」は、=ブログ初掲載=になります。
文章は、2012年ごろに掲載した内容を下記の通り引用しました。
南国=タイ=に駐在していた頃、アユタヤ時代以前に栄えた=スコータイ遺跡=を見に行った事があります。1998年7月10日のことです・・・。そのころ、バンコックに居を構えていたのですが、=タイ国=タイ族の最初の国家と言える原点・タイの黎明期となった都の散策に心を奪われていました・・・今では、その地は、=スコータイ王朝遺跡公園=になっていて、かなり広かった。バンコックから北に360キロ、スコータイ市からは西へ12キロの場所に=スコータイ王朝遺跡公園=は、ありました。その公園遺跡は、先日、洪水で有名になった=チャオプラヤー川=の近くでした。スコータイという地名は、「幸福なタイ」と言う意味で、バーリー語では、「幸福な夜明け」という意味であったと言う・・・。文字通り現在のタイ王国の文化文明の=黎明=を表した言葉だったのでしょう。この「スコータイ王朝遺跡公園」の或る場所から、南へ下がった「バンコック」まで標高差がなんと、1.4メートルしかない高低差だという・・・今回の洪水被害で、溢れた=水=がなかなか引かなかった理由もなんとなく理解できます・・・。この「スコータイ王朝遺跡公園」で初めて=アゲハチョウ科=「キシタアゲハ」を観察しました。スコータイ王朝の「ラムカムヘン王」は、大変な業績を残したのですが、軍事・政治・外交・文化・仏教など多岐に亘って人民を統括したといい、その死後、南で勃興した「アユタヤ」がスコータイに代って遷都したといいます。スコータイで一番大きいホテル・・・「パイリン・ホテル」=Pailyn Hotel=フロントの後ろを見たら・・・日本の現・明仁(あきひと) 天皇陛下ご夫妻が、1991年9月28日に、ご宿泊なされたと、写真入りで紹介してあった、天皇陛下も=スコータイ王国遺跡公園=にお出掛けなさったのであろうか・・・。
]]>
世相と歩む人生 442年ぶりの天王星月食 2022年
http://choyukkuri.exblog.jp/29924567/
2024-03-02T08:52:00+09:00
2024-03-02T08:54:43+09:00
2024-03-02T08:52:59+09:00
chochoensis
結婚50年史
今日は雛祭りだそうである。しかし、今日も天体の不思議について掲載しましょう。
あれは、今から2年前の事だった。
月食は良く見られますが、天王星と言う惑星食が同時に見れれるのは、日本では442年ぶりだそうです。これは、チャンスを逃す手はないーーーと考えて、十分な準備をする事になった。
その時の画像が下の記事です。掲載時のままです。
2022年11月9日
昨晩は、興奮してなかなか寝られなかった、なんと、聞けば、安土桃山時代の1580年以来だという。月食と惑星食が同時に見られるのは、めずらしいという・・・こんかいは、442年ぶりとなる惑星食・・・「天王星月食」がみられるという。
このチャンスを逃すと、次の観測は、かなり遅くなるらしい。
午後18時9分ごろにかけ始めるというので、スタンバイしていた。
太陽と地球と月が一直線に並ぶ・・・皆既月食は、今回、太陽の赤い光が月を照らして…月が赤くなるのが特徴です。
最後の写真の4時方向に見える小さな点が・・・「天王星」です。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/